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戦闘

ワーテルローの戦い

1815年6月18日

丘陵が持ちこたえ、二つの連合軍が合流する時間を稼ぐ

軍事史

ウェリントンの陣地とブリュッヒャーとの連携は、どのようにフランス軍の局地的成功を全面的な敗北へ変えたのか。

ナポレオンは、ウェリントン連合軍とブリュッヒャーのプロイセン軍が支援し合う前に、両軍を別々に撃破しようとした。リニーとカトル・ブラの後、モン=サン=ジャンの丘にあるウェリントンの陣地を攻撃した。フランス軍は局地的な成功を収めたが、連合軍の反撃とプロイセン軍の段階的な到着によって、時間が過ぎるほど作戦上の負担が増していった。

軍を別々に撃破する

ナポレオンは6月15日にサンブル川を渡り、ウェリントンとブリュッヒャーが兵力を結合するのを防ごうとした。6月16日のリニーでプロイセン軍を破ったが、壊滅させることはできなかった。カトル・ブラによってウェリントンは連絡を保った。

持久のための陣地

ウェリントンは軍の主力をモン=サン=ジャンの丘の背後に置いた。ウグモン、ラ・エー・サント、パペロットが接近路を覆い、両翼の支点となった。

時間が敵になる

雨がフランス軍の攻撃開始を遅らせた。この遅れによって、リニー後に再編したプロイセン軍はワーテルローへ行軍し、フランス軍対ウェリントン連合軍の会戦を二正面の戦闘へ変えた。

多国籍の連合軍

ウェリントン軍はイギリス、オランダ、ドイツなどの部隊から成っていた。その結束は完全な均質性ではなく、防御陣地、予備隊、プロイセン軍の支援まで持ちこたえられる指揮によって保たれた。

探索

年代順資料

戦闘 · 1805年12月2日アウステルリッツの戦いナポレオンは右翼を脆弱に見せかけ、連合軍が進出した時点でプラッツェン高地を打った。戦闘 · 1806年10月14日イエナ・アウエルシュテットの戦いナポレオンはイエナでプロイセン軍を破り、兵力で大きく劣るダヴーはアウエルシュタットで主力軍を退けた。戦闘 · 1800年6月14日マレンゴの戦いほぼ敗れた戦いは、予備隊の到着と集中した反撃によって、いかに逆転されたのか。戦闘 · 1805年10月21日トラファルガー海戦英軍の二縦列は接近時の砲火を受け入れ、いかに敵戦列を断ち切って局地戦を強いたのか。戦闘 · 1807年2月7日 — 8日アイラウの戦い雪、視界、段階的な部隊到着は、決戦を求める戦いをいかに決着のつかない極めて高価な戦闘へ変えたのか。戦闘 · 1809年7月5日 — 6日ヴァグラムの戦いロバウ島からの渡河は軍を広大な弧に展開させた。6日、連携を欠くオーストリア軍の攻勢はアスペルンを脅かしたが、砲兵隊がマッセナを支え、ダヴーがマルクグラーフノイジードルを迂回、総攻撃が秩序ある撤退を強いた。戦闘 · 1812年9月7日ボロジノの戦いロシア軍陣地を次々に奪っても、なぜ敵軍もその退却能力も破壊できなかったのか。戦闘 · 1813年10月16日 — 19日ライプツィヒの戦い連合軍はいかにして個別に撃破されることを避けつつ、複数の軍をライプツィヒ周辺で協調させたのか。

軍事史

史料

機関資料The Battle of Waterloo, National Army Museum

Notice de synthèse sur la campagne et la bataille du 18 juin 1815

戦役の背景、陣地、地図上の復元、攻撃の経過、概数としての兵力、結果を確認する。

閲覧 ↗
一次史料Wellington's Waterloo dispatch to Lord Bathurst, 19 June 1815

Dépêche de Wellington après la bataille

展開、交戦、プロイセン軍の到着、損害に関する同時代の叙述を確認する。

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現代の研究文献David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon

Synthèse moderne de la campagne de 1815 et des décisions opérationnelles

ナポレオンの選択、予備隊の役割、連合軍の連携を文脈の中で捉える。

編集:BattlesInMotion.com